社会参画仏教
主要な宗教や、太古から存在する精神文化の伝統にはどれもその中に、社会的な行動を導く教えを含んでいます。中でも私は、私の生き方や仕事のインスピレーションとなり、導きを与えてくれた仏教の教えに感謝しています。
ブッダの教えの中心にある「縁起」は、あらゆる現象が相互に依存しあいながら起きている、ということを示しています。そのことを理解し、実践することで私たちは、自己中心的な考え方から解放され、またそこから生まれる強欲、憎悪、誤った思い込みなどからも解放されるのです。社会参画仏教という言葉は、こうした教えを社会において応用することを指しています。そうすることによって私たちは、私たちを取り巻く世界と、責任のある、生き生きとした関係を持つことができるのです。
我が師
私は、1965年、北インドでチベット難民の支援活動をしていたとき(詳しくは『Widening Circles, A Memoir』を参照のこと)に仏法に出会い、そしてそれは私の生き方や仕事の中心をなすものとなりました。私が敬愛する、チベット仏教カギュ派の師には、カムトゥルール・リンポチェ8世、カルマ・ケチョグ・パルモ姉、ドゥルグのチョーギャル・リンポチェ、そしてタシジョンのコミュニティに暮らすトクデン・アントリムなどがいらっしゃいます。
私の瞑想修行は主に、テーラヴァーダ仏教のヴィパッサナー瞑想の伝統に則ったもので、スリランカのニャナポニカ・テロ師とシヴァーリ尊師、西ベンガルのムニンドラジ師、タイのディラヴァムサ師、その他たくさんの優れたアメリカ人の師に感謝いたします。
大学院に戻ってからは、仏典からさまざまな学びを得ました。シラキュース大学での博士課程は、ブッダの縁起に関する教えと、それが一般システム理論とどのように融合するかに焦点を当てました(詳しくは拙書『Mutual Causality』を参照のこと)。
スリランカでは、村人による自助運動であるサルボダヤ運動(詳しくは拙書『サルボダヤ ― 仏法と開発』を参照のこと)について幅広いフィールドワークを行い、仏教の教えが社会の変革とどのように関係するかをさらに学ぶことができました。また、私が顧問を務める仏教徒平和協会(Buddhist Peace Fellowship)の数多くの仲間たちからも多くを学びました。社会参画仏教に関する私の理解は、拙書『Mutual Causality』と『世界は恋人 世界はわたし』に示した通りです。
ボーディサットヴァ *1
世界の主要な宗教においては、霊的な生き方として二つの方法が示されているように思います。一つは、混沌としてボロボロで不完全な、この苦しみの世界から抜け出して、永遠の光に満ちた聖なる世界へと入っていく生き方です。ですがそれと同時に、同じ宗教において、霊的な生き方とはまた、そうした現実世界の中心へ――苦しみと破壊と不完全さという世界のただ中へ――入っていくことによって聖なるものを見出すことである、とも解され、そのように描かれてもいます。
仏教ではこの、現実世界のただ中に入っていく、ということは、菩薩(ボーディサットヴァ)との関係の中で語られます。初期の小乗(テーラヴァーダ)仏教においては、ボーディサットヴァという言葉はゴータマ・ブッダの前世を意味します。ゴータマ・ブッダには数多くの前世があり、そのそれぞれの中で彼は、慈悲の心と智慧を実践し、育んだのです。それこそがボーディサットヴァの特徴でした――つまり、慈悲の心、そしてすべてのものは互いにつながり合っている、という理解です。そして彼はこうした力を、人間としてのみならず、人間以外の生き物としても身に付けました。私と同じように、皆さんの中には『ジャータカ物語』がお好きな方がたくさんいらっしゃることと思いますが、そこにはこうしたゴータマの前世が、勇気や慈悲の心を示す素晴らしい逸話とともに語られています。物語の中のブッダはときには商人や王子、あるいは王の相談役であったりしますが、またウサギ、サル、ゾウ、ヘビであったりもします。
大乗仏教が登場すると、ブッダの教えの中心にある縁起という考え方は、新たな認識と活力を伴って理解されるようになりました。と同時に、「ああ、私たちは根本的に相互につながり合って共に進んでいるのだから、互いが互いの一部なのだ。私たちはみな菩薩だ――それが私たちの真実の姿なのだ」という、はっきりとした気づきが起こります。これが、大乗仏教の始まりである般若経の主要なメッセージです。
数百年をかけて大乗仏教が成熟していく中で、菩薩とは何ぞや、ということを体現するイメージが、いくつもの原型的な菩薩像となって登場します。これらの菩薩はいつでもあなたのすぐそばにいて、あなたはいつでも彼らに呼びかけることができます。あなたが、智慧を体現する文殊菩薩のことを思うとき、あなたはあなた自身の、智慧を持つ力を称えています。あるいはあなたは、耳を傾ける「慈悲深き者」、観世音菩薩に向かうとき、あなたの中の慈悲の心を感じるかもしれません。行動の菩薩である普賢菩薩に祈るとき、あなたの創造性と勇気を手にするかもしれません。あるいは、地獄の一番底で苦しむ者たちのためにそこまで降りていくことを恐れない地蔵菩薩を拝むとき、あなたはあなたの中にある勇敢さに気づくかもしれません。
このように、人間の心が持っている力を象徴し呼び覚ますこと、私たちの誰もがこうありたいと願うことを形として示すこと、それがこうした菩薩たちからの贈り物なのです。私たちが自分や他者を、菩薩になる可能性を持つ存在として見られるようになると、私たちと世界との関係はより落ち着いたものになります――世界が混沌としていることやそこから来る痛みを怖れず、世界に対して尻込みすることも心を閉ざすこともなくなるのです。逆に私たちは、世界に対して心を開き、その中に入っていきます。そこには恐れを知らない心と、ある種の喜びがあります。
最も初期の大乗仏教の経典には、菩薩は二枚の翼で飛翔すると書かれています。菩薩には、自分のものと呼べる場所、見解、所有物がないので、地に足を着けるところがない、ということがそれらの経典では詳細に述べられています。そこにはまた、確固とした自己も、不変の固有性も存在せず、また、私たちが理解する形での安全保障も存在しません。自己というものの性質についてブッダの説くところを真剣に受け止めるならば、菩薩には安全の保証などないのです。
菩薩には立つ場所は必要ありません。なぜなら菩薩は飛べるのですから――般若経が言うところの「深いところ」を飛ぶのです。そして菩薩が飛ぶための2枚の翼とは、慈悲の心と智慧です。避難する場所、あなたを守ってくれる居心地の良い安全な場所を探し求める代わりに、あなたはただこの2枚の翼を信じ、高く飛ぶのです。
アラン・ワッツは不安定であることに宿る叡智について語っています。水を捕らえて離すまいとすると水は淀む、と彼は言います。人生も同じです。ところが水を流れるままにすれば、水は新鮮さを失わずキラキラと輝きます。私は、愛する人や場所を離れる悲しみを乗り越えるためにこんな印を結びます――手の指を開き、指の間を水がキラキラと、光を捉え、新鮮なままに流れていくところを想像するのです。ブッダの教えでは、それが私たちという存在です。つまり私たちは存在という流れ、バワーソータなのです。そしてヴィニャーナ・ソータ(識)、つまり意識の流れでもあります。私たちは、永続的で変化することのない自己という存在ではなく、流れる水であり、留まる場所を持ちません。ですから、安全に立てる場所のない菩薩は飛ぶのです――慈悲と叡智という両翼に乗って。
縁起
ブッダは人に説法するとき、法輪を回した、と言われます。まさにブッダの教えの中核をなすものは車輪のようです。なぜならそれを通じてブッダは、あらゆるものの縁起を――あらゆるものは、車輪のスポークのように実在する相互関連性の中で、互いに互いを常に変化させ、条件付けしあうものであるということを――教えたのですから。
私は縁起に関するブッダの教えに深い感銘を受けました。それは私を、あらゆる存在と自分がつながっており、互いに責任を負っている、という感覚で満たします。それによって私は、生命とは非階層的な、自己組織化するものである、ということを理解し、私の仕事のすべてにおける考え方の基盤としてこのことがあります。
私たちの恐れや強欲が生み出した不安定な壁を超えたところでは、私たちは本質的に世界から切り離せない存在である、という認識は、仏法が、あらゆる世代の無数の人に与えてくれる贈り物です。ただし歴史の中には、こうした視点がより多くの人々を捉え、仏教全般(仏教全般などというものがあればの話ですが!)で、このブッダの教えの核心について新しく理解し直す、という瞬間があります。現在、まさにそれが起こっているように思います。私たちの社会政策の多くは、破壊的で、ときには自滅を招くようなものでさえありますが、それと同時に、社会的・知的な意味での発達が一つになって、縁起というブッダの教えをくっきりと浮かび上がらせ、そして法輪が再び回り始めているのです。
これはさまざまな形で起きつつあります。ブッダの教えの社会的側面の見直しに、菩薩という理想像の再生に、「社会参画仏教」の急激な広まりに――それはスリランカにおけるサルボダヤ運動であったり、インドのアンベードカル派仏教徒であったり、チベット、タイ、あるいは東南アジア諸国で仏法を説く活動家たちであったりするわけですが――それが見られます。西欧の仏教徒たちもまた、仏法を現実世界において実践し、ホームレスの人々を助けたり、河床を復元したり、あるいは武器の輸送を阻止するなどの行動を通して、慈悲の心を体現する巧みな方法を編み出しています。今日、仏教が持つ活力は、それがいかに社会的、経済的、政治的、環境的な問題に影響を与え、人々を変化を起こす効果的な主体たらしめているか、ということの中に最も明らかに表れています。法門とは、私たちの背後を閉ざし、俗界で起きている混乱や苦しみと無関係で安全な僧院生活に私たちを囲い込むものではありません。そうではなくて、法門とは、生きとし生けるすべてのもののためにリスクを負う生き方に私たちを導くのです。仏法に従う兄弟、姉妹たちの多くが現在気づきつつあるとおり、この世界こそが私たちの僧院なのです。
そこでは、時代遅れの考え方やもはや機能しなくなった力の構造がもたらす苦しみに気づいた人々の新しい手と心に助けられて法輪が回ります。仏教の思想と実践が、環境保護運動が持つ価値観やガンジーの非暴力主義、人間性心理学、エコフェミニズム、持続可能な経済、システム理論、ディープエコロジー、そして新パラダイムに基づく科学と影響し合い、強力な融合が起きつつあります。
ベトナムの禅師ティク・ナット・ハンによる「インタービーイング」についての教えは、このことの特徴をよく捉えています。学者、活動家、教師、詩人、瞑想者、そして調停者などなど、ハン師は一人の人間が一度の生の中で果たすことのできる菩薩の役割の数々を示して見せるだけでなく、インタービーイングという概念とその実践を通じて、縁起というブッダの教えへと続く門を大きく開くのです。
今、私たちには、自分のすることのすべてがあらゆるものに影響を与えるということがわかります。あなたがあなたの子どもにどのように接するか、それは政治的な行動でもあり、あなたが購入する製品やリサイクルの努力もまた政治活動の一部です。瞑想することもそうです――自覚して生きようと努力するというただそれだけのことも、とてつもなく重要な仕事なのです。私たちが、自分自身に対して、あるいはお互いに対して、しっかりとそこに存在しようとするとき、それは地球を救うことにもなるかもしれません。地球上の生命を救う、ということは、将来世代の人々との間に、強くて愛情にあふれたつながりを育む、ということでもあります。なぜなら、縁起という法によれば、私たちは遠く離れた時間と場所を超えて互いを支えあっているからです。
現在回転している法輪はまた、私たちにこうも言っています――私たちは、つながりを生み出すことも創りだすことも必要ありません。つながりはすでに存在するからです。私たちはすでに、絶対的に、互いが互いの一部です。それが生命というものの本質だからです。ですから私たちは、軽率だったり、不必要に慌てたり、ときに意気阻喪することがあっても、それでも互いの一部であることに変わりはありません。そのことを知れば私たちは安心し、立ち止まって呼吸をすることができ、そしてその呼吸が私たちを、回転する法輪の中心の、じっと動かない部分につなげてくれることでしょう。
ジョアンナ・メイシー
(翻訳 三木 直子)
(出典: joannamacy.net 2009-2018/
(*1) Insight Magazine『The Wings of the Bodhisattva』2001年春夏号掲載、バーレ仏教研究所での講演録より抜粋)
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